この記事ではガーシーさんが一体何者でどういう経歴なのか?
なぜ、あんなにも芸能人たちの仲間がいて、暴露話ができるほど情報を持っていたのか?
気になりますよね。
そんなガーシーさんに関する生い立ちや経歴をまとめていきます。
- ガーシーが就職した企業と、独立起業したビジネス
- ガーシーと芸能人の出会いのきっかけ
- ガーシーが数々の芸能人の人脈を築けた理由
- ガーシーが手掛けていた数々のビジネス
- ガーシーの「アテンド」について



ガーシーの基本プロフィール

名前 | 東谷義和(ひがしたに よしかず) |
別名 | ガーシー |
生年月日 | 1971年10月6日 |
出身地 | 兵庫県伊丹市 |
身長 | 180cm |
本名は、東谷義和(ひがしたに よしかず)さん。
『ガーシー』は東谷義和さんの昔からのあだ名なんだそう。
他にも「ガッシー」「ガッちゃん」「東さん」というあだ名があるそうです。
YouTubeで話題になるまでは、一般人だったため名前を聞いたことはありませんでした。

ガーシーさんといえば、軽快な関西弁のトークが印象的だよね~!



一体どんな経歴の持ち主なのか、気になるニャン!!
それにしても身長は180センチもあったんですね!
ガーシーは関西で車業界に就職したもののすぐに脱サラ起業!
まずは、ガーシーさんの故郷である兵庫県での経歴から見ていきましょう。
どうやら就職したものの、すぐに自分で商売を初めたようです。
また、芸能人との出会いのきっかけは何だったのでしょうか?
ここでは、
- ガーシーは大学卒業後、兵庫ダイハツに就職
- ロンドンブーツの田村淳との出会いと上京
の2点について見ていきます。
ガーシーは大学卒業後、兵庫ダイハツに就職
暴露系YouTuberとして話題になり、その後は参議院議員にまでなったガーシー(東谷義和)さん。
そんなガーシーさんの経歴の出発点は、車の販売代理店や板金工場の経営だったんですね。
大学卒業後、兵庫ダイハツに就職したものの、すぐに退職して1994年に大阪で車屋(板金塗装や車の販売代理店)を開業。
この選択は、当時の経済状況や車文化とも深く関係していると思われます。


1994年といえば、バブル崩壊の影響が広がり始めていた時期。
土地や株価の暴落で多くの企業が苦しむ一方、中古車市場や個人向けの販売ビジネスが盛り上がっていました。
新車よりも手頃な中古車の需要が高まり、自動車関連ビジネスに新しく参入する人も増えていたようです。
特に関西は車文化が根強く、ヤンチャな若者文化やVIPカーのカスタムが流行していました。
そんな環境の中でガーシーさんが車屋を開業したのは、時代の流れをうまくつかんでいたのかもしれません。
情報引用元:内閣府
ロンドンブーツの田村淳との出会いと上京
ガーシーさんの車屋は、単なる中古車販売や板金塗装だけでなく、芸能人やアスリートが顧客だったと言われています。
当時、関西ではプロスポーツ選手や芸能人が頻繁に高級車を乗り換える文化があり、それを支えるブローカー的な存在もいました。
ガーシーさんもその一人だったのではないか、と個人的には思います。
スポーツ選手や芸能人は、信頼できる仲介業者から車を買うことが多く、彼の人脈はこの頃から広がっていったのでしょう。
車屋の経営をしながら顧客との関係を深め、それが後のアテンド業につながったとも考えられます。
そんな中、ガーシーさんは大阪ミナミのバーで偶然に出会ったヴェルディ川崎の廣長優志さんを通じて、ロンドンブーツの田村淳さんと知り合い、仲良くなって東京へ上京しています。
ロンドンブーツの淳さんの家に1年近く居候していたこともあったそうですね。
また、ガーシーさんはこの頃に島田紳助さんとも出会い仲良くなったそうです。
ガーシーさん自身の話によれば、ガーシーさんの父親がなくなった時に、忙しい中お葬式に島田紳助さんが来てくれたのだとか。
ちなみに、ガーシーさんの父親の死因は、はギャンブルが原因での自殺と、ガーシーさん本人が語っていました。
ガーシーは東京で複数の事業を展開!芸能事務所も手掛けていた?
上京した後のガーシーさんは飛ぶ鳥を落とす勢いて、様々なビジネスを展開していきます。
どうやら、その間に数々な芸能人との人脈を築いていったようですね。
ここでは、
- ガーシーは六本木でカラオケバー「MACCA」を経営
- ガーシーは西麻布にバー「プライブ」を開業
- ガーシーは芸能事務所も経営していた?
について見ていきます。
ガーシーは六本木でカラオケバー「MACCA」を経営
ガーシー(東谷義和)さんの人生の重要な転機となったのが、六本木のカラオケバー「MACCA」の経営でした。
当時、1990年代の六本木はバブル崩壊直後の影響を受けながらも、日本のナイトライフの中心地としての活気を失っていませんでした。
地価の下落に伴い、高級クラブの閉店が相次ぐ一方で、比較的リーズナブルなカラオケバーや飲食店が台頭し、新しい形の夜のビジネスが生まれ始めていたのです。
ガーシーさんは車屋さんを辞めて、お父さんが亡くなった後に大阪に戻っていました。
そんな中、お笑いコンビ「アメリカザリガニ」の平井善之さんから「一緒に東京でバーをやらないか?」と誘われたことで、ガーシーさんは六本木にカラオケバー「MACCA」をオープンに至ったようです。
このカラオケバーMACCAが芸能人やスポーツ選手、業界関係者が密かに集まる場となり、ここでガーシーさんは次々と人脈を広げていったようです。
六本木での成功を受け、ガーシーさんは札幌・すすきのにも「MACCA」を展開。
北海道最大の歓楽街であるすすきのは、観光客だけでなく、地元の飲食業関係者やアーティストが集う場所として知られています。
そして、札幌にライブで来るアーティストがいつもガーシーさんのお店を打ち上げで使ってくれるようになり、更に爆発的に芸能人の知り合いが増えたそうです。
その後も勢いは止まらず、大阪の北新地でも「MACCA」をオープン。
北新地は東京の銀座と並ぶ高級クラブ街であり、企業の接待や芸能人の集まりが頻繁に行われるエリアです。
ここでも大阪にライブに来るアーティストや芸能人が頻繁に使ってくれるようになったそうです。
その時にJUDY AND MARYのギタリストのTAKUYAさんが沖縄でお店をやっておりそのお店を「MACCA」と言う名前に変えて沖縄にも進出しますが、沖縄はシーズンオフはさっぱりで直ぐにお店を閉めたようですね。
ガーシーは西麻布にバー「プライブ」を開業
六本木で「MACCA」を成功させたガーシー(東谷義和)さんは、さらなる展開として、西麻布にバー「プライブ」を開業しました。
西麻布といえば、六本木の華やかさとは一線を画し、落ち着いた大人の社交場として知られるエリア。
特に、芸能関係者や業界人が集まりやすい場所として、1990年代から密かに栄えてきました。
この「プライブ」は、一般にはほとんど知られていない会員制バーだったようです。
公式サイトや詳細な住所もなく、招待された人だけが訪れることができる“クローズドな空間”だったと考えられます。
芸能人にとって、パパラッチを気にせずくつろげる場所は貴重であり、そうした安心感から、多くの有名タレントやアーティストがこの店を利用していたのでしょう。
YouTubeなどで暴露されていた芸能人脈のほとんどをこのお店で作ったそうです。
このバーこそが、ガーシーさんの芸能界ネットワークの拠点になったと言われています。
YouTubeで暴露される芸能人とのつながりの多くは、ここで築かれたものだったのです。
訪れたとされる芸能人には、TRFのSAMさん、AKB48のメンバー、西川貴教さん(TM Revolution)、UVERworldのTAKUYA∞さん、ONE OK ROCKのTakaさん、俳優の三浦翔平さん、佐藤健さん、城田優さん、山下智久さんなど、錚々たる顔ぶれが名を連ねます。
西麻布の落ち着いた雰囲気の中で、彼らは“公の場では語れない話”を交わし、特別な時間を過ごしていたのかもしれません。
西麻布は、隠れ家的なバーや高級レストランが点在するエリアであり、特に会員制の店が多いことで知られています。六本木のように観光客向けではなく、限られた顧客層が集まるため、芸能人や業界人にとってプライバシーが守られる空間になりやすいのです。
「プライブ」も、そうした西麻布の特性を活かした店だったのでしょう。
誰でも入れるわけではなく、特定の関係者のみが足を踏み入れることができる場所。
だからこそ、芸能人同士が信頼関係を築き、より親密なつながりを持つ場として機能していたのかもしれません。
ですが、2011年の東日本大震災を機に店を畳んだということなので、バーの経営は2011年までだったようです。
ガーシーは芸能事務所も経営していた?
また、ガーシーさんはバーの他にも芸能事務所を経営し、当時「いいとも青年隊」だった岸田健作さんを預かっていたこともあったようです。
それから芸能事務所『PowerM』や『ライジングライジングプロダクション』に所属し、タレントのマネージャーを務めたこともあるんだとか。
元「いいとも青年隊」の岸田健作さんと175R SHOGOさんは友達で、その関係でガーシーさんは175R SHOGOさんを紹介してもらい仲良くなったようです。
そして175R SHOGOさんから、UVERworldのTAKUYA∞さんを紹介してもらい仲良くなっていったそう。
このように、ガーシーさんは本当に芸能人が芸能人をドンドン紹介してくれる形で人脈が爆発的に増えたようですね。
ガーシーは「株式会社ever free」の元代表取締役
そして、ガーシーさんは2017年5月に「株式会社ever free」を立ち上げ代表取締役を努めていました。
「株式会社ever free」というのは、アパレルの会社です。
この「株式会社ever free」には「QALB(カルブ)」というブランドがありました。
「QALB」はアラビア語で「心臓(ハート)」を意味し、ブランドコンセプトは「もう飽きた、だから新しいカタチを。」ロゴには「NO MERCY(慈悲はありません)」というフレーズが使用されていましたようです。







アラビア語のロゴが斬新でカワイイ!
俳優の新田真剣佑さんや山田孝之さん、元欅坂46の今泉唯さんなど多くの有名人が着用したすごいブランドだったようですね!
ガーシーは27年間芸能の裏方として「アテンド」していた!
色々な事業をしていたガーシーさんですが、1995年頃から芸能界の裏方として「アテンド」していたようです。
アテンドは接待という意味があり、ガーシーさんは芸能人のプライベートの旅行を手配したり、女性の接待を伴う飲み会をセッティングする事などをしていたようですね。
また、ガーシーさんは多くのタレントやアーティストと知り合い、知り合いのアーティストがコンサートを開いたら必ず打ち上げに行っていたそうです。
その打ち上げでもおそらく、女の子のアテンドなどをしていたようですね。
しかも、全部自腹だったんだとか!


ロンブーの淳さんとTMの西川貴教さんからは「打ち上げの代行屋」として各芸能事務所から契約してお金を貰ったら?と提案されたそうです。
しかし、その当時は暴露していた芸能人達を友達だと思っていたから、友達からお金は貰いたくないと思い1円も貰わなかったそうです。
唯一友達を利用したのは先述したアパレル会社をしていた時にタレントさんに服を着て貰っていた時だけのようです。(これがいわゆるステマ広告で話題となりました。)
こうして色々な事業をしながら、27年間無償で芸能界のアテンドをしていたようですね。
そのためにガーシーさんは芸能人の人があまり知られたくないような、交際事情や裏事情に詳しいということのようです。
ちなみに、新田真剣佑さんが2020年5月の文春で山田孝之さん率いる『山田会』で沖縄入りし、美女とデート姿をスクープされ話題になっていた時も、ガーシーさんがアテンドしていたんだとか!!



芸能界の中での交友関係がすごいのも納得だね!
まとめ
ガーシーさんは普通に就職した後、兵庫ダイハツに就職するもすぐに退職。
その後は経営者としての道を進んでいたようです。
そして、上京のきっかけはロンドンブーツの田村淳さんとの出会いで、東京に住んでからは様々なビジネスを成功せて、一時期は相当稼いでいたと思われます。
そんな中で知りたった数々の芸能人との人脈があり、その芸能人達に「アテンド」する仕事をしていたことで、様々な業界の裏話を知っているようですね。
そんな裏話が暴露話の元になったのは言うまでもありません。


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